天理教では、天保九年(1838年)十月二十六日までの色々な教えは、天理王命(親神)が教えてきたことであり、その中に他の宗教も含まれていると教えています。

 世界宗教のキリスト教も仏教も親神が教えてきたこととしています。天理教の教組(おやさま)が存命中に話の取次として仕込まれた人々が書いたこふき本では、仏や日本の神々や日本の歴史上の人物に対しての記述が見受けられますが(仏法見立て、神道見立て)、それ以外を含むのでしょうか?根本の教義が同じことを説いているのでしょうか?

 天理教の信者は、十を知る天理教の教えのみだけでも問題ないと思いますが、この世は、天保九年十月二十六日から始まったわけでなく、それ以前に裏の守護といわれる長い道のりがあり、その道のりを知る上で、天理教側から都合の良い部分だけを引用をしないように、各宗教の解釈は自己流でなく、原典と専門的に研究した人の一般的な解釈に倣います。天理教の教義の解釈の基本は原典(みかぐらうた、おふでさき、おさしづ)と二代真柱の解釈に倣って、解説は教義書(教典、教祖伝、教祖伝逸話篇)と天理教事典を参考にします。

 そして、天理教と他の宗教との対立を煽るのではなく、宗教によっては助かった人や魅了する教義があればこそ数百年から数千年と続き、尊敬できる方たちもいらっしゃいます。それを親神が説いたこととしてすべての教えを混ぜて良いのかであり、それは時代や人の成熟度に応じて段階的に説いていたなら他の宗教の教義を尊重しながら暗に未熟と捉えているのと同じであります。このサイトは、他の宗教はそれぞれ完成したという視点に立った上で、調べてみて誤認識しているところもあるかもしれませんが、他宗教との公平性を期すために我田引水にならないように検証したいと思います。文中の人物の敬称は省略します。

 検証は個人的見解です。

  異端とは、玉石混淆の史料をあげて三原典から離れた解釈をすることで、そこから分派が生まれてきます。三原典のなかでもおふでさきが話の台であり、おさしづはそれを注釈するものであります。教理の伝達で、医者や薬はいらないと言う人々に対して親神が叱ったことが原典に記されているように、教祖以外を理の親とする信仰や「成ってくるのが天の理」など原典にないことの教えは、先駆者のさとりの延長上でのことだと思われますので、原典を離れたさとりは、なるべく排除したいと思います。個人のサイトなので、個人の見解は述べます。

 キリスト教の「信じる者は救われる」はすべての宗教が当てはまるのか?

 文明の発達していない古代の人々は、自然界の人智の及ばない存在を神とし、自然と共生していくための知恵の集成から教えがつくられ、宗教が発生してきたと考えられます。また、動乱の時代にはたくさんの宗派ができ、人々の救済が付加されましたが、救済の方法が相違あるから宗派が分かれたのです。例えば、一神教は元は同じ神であっても、何を信じるかによって分かれ道があって(キリスト教はイエス・キリストを主でありメシアと認めていますが、ユダヤ教とイスラム教は認めていません)、仏教も念仏と題目は帰依する文句や引用する経典が違い、同じ仏の教えながら方便と真実があります。信じる対象が違えば真に救済されません。そもそも信じる者は救われるのであれば、宗教が乱立することはないし、宗教以外のものでも信じれるものがあれば宗教は不必要です。

 天理教の教祖伝逸話篇も「あんた、富士山を知っていますか。頂上は一つやけれども、登る道は幾筋もありますで。どの道通って来るのも同じやで」とあります。その頂上を同じ真理と解釈すれば、天理教でなくても他の宗教で頂上にたどり着けるなら後発の天理教は不必要です。しかし、他の逸話篇「ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」「本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり」から頂上が全ての神仏が鎮まる「ぢば」とすれば解釈は違ってきます。よって、このサイトは抽象的な表現も省きたいと思います。

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