天理教

 天理教では「誠」が重要な教義です。解釈は「誠について」で述べましたが、当時の高弟達がどのように理解していたのか本部員講話によって参看します。

 宮森興三郎(安政4年生まれ、明治10年頃、左腕痛から入信。生涯のほどんどをお屋敷で過ごす)

誠の条件

 (前略)誠というのは、四方正面とおっしゃる。縦から見ても横から見ても、なるほどの者やというは誠や。誠なことを言っていても、行わねば誠ではない。どこから見てもなるほどの者や、なるほどの人やというのが誠や。(中略)誠というのは、心と口と行いの三つがそろわねば誠やござりません。誠の話するくらいの人は、世界には竹杷でかき集めるほどある。口でどれほど誠なことを言うても、誠なことをせなかったら、それは誠ではございません。それは口だけの誠や。(中略)教祖が誠の話をなされたというだけで、これだけの結構な道が付いてきたのやございません。教祖は心と口と行いと、ちゃんと三つそろうてあったのや。それで今日の道になってきたのでしょう。そやから、誠というのは三つそろうてこなければならん。外から見てどれほどきれいでも、中の心が汚れていてはならん。きれいな体によい着物を着て、心もきれいになれば三つそろうてあって、これが誠や。(『本部員教話抄』天理教道友社 pp.49-51)

上田民藏(文久元年生まれ、両親が元治元年に入信。民藏は幼時から熱心に信仰していた)

たんのうは真の誠

 たんのうは真の誠であります。真の誠あればたんのうができる。(中略)よく聞き分けて心のたんのうして通るのが、すなわち誠というのであります。この心をもって日々お通り下されば、ほかやない、お言葉にも、「一筋に糸を伝うてくるならば、末では神が待ち受けている」と仰せられたように、誠一つという心をもって、誠というは正直な心、その誠一つという堅い心でこのお道を信心するならば、末では神様が待ち受けてござるとおっしゃるのであります。その誠の心は、この世を通りゆくには、弱そうにも思われるが、これがまた強いのであります。糸一筋は頼りないものやが、この心をもってよく通るなら、神様はその心を受け取って下さり、何ごとも自由自在というご守護を下さるのであります。

 まず、この家は調子よく治まるというは、心の誠一つが自由自在という。その誠の心をもって通るから、内々は身上息災に、仲よく結構に暮らさしていただけるのであります。そのご守護を受けるというのは、心の誠が台というのであります。しまするで、お道という道は、お話を聞かしていただいただけではなんにもなりませぬ。聞かしていただいた理をしっかりと胸のうちに治めて、ご教理どおりの心となりて、行いを実地に現すから、ご守護下さるということになるのであります。口と心と行いと、この三つが合わなければ、神様の自由自在というご守護は下さりませぬ。(『本部員教話抄』天理教道友社 pp.79-81)

増井りん(天保14年生まれ、明治8年入信。教祖と本席のお守り役を務める)

真実誠一つがたすかりの元

 天の親神様は、真実誠一つを受け取る。口先でなんぼ立派なことを言おうが、肝心要の真の誠がなければ、神は受け取ることはできん、誠一つさえあれば、何を言わなくとも、神様がチャンと受け取って下さる、と仰せ下さるのであります。

 口先でなれば、どんな大きなことも言われます。また、時により、場合に当たっては、どんな小さなことでも言えましょう。口先だけであるなら、だれにでも、どんなことも言えましょう。これでは神様の思召にかないませぬ。天の理に背きます。親神様は、誠一つをただ受け取ると仰せられます。人間がたすかりたいという真心一心から家内中が願えば、どんなご守護も下さります。その願う心の理を神様はお受け取り下され、どんな自由自在のご守護も下さるのであります。(後略)(『本部員教話抄』天理教道友社 pp.91-93) 

土佐卯之助(安政2年生まれ、明治11年に入信)

誠は宝

 天の親神様は、人が拝み信心のみでなく、心をつくって誠の人とならんことを望んでおられるのである。誠という一つの心さえもって願えば、神は何一つかなわんとは言わんと仰せ下されている。

 誠の精神さえあれば、たとえ火の中であろうと焼け死ぬようなこともなく、水の中であろうと溺れるようなことはない。剣の中、茨の道であろうと、誠一つの心さえあれば、親神様は連れて通って下さる。

 誠は金銀財宝よりも貴い。火にも焼けず、水にも流れはしない。誠は金銭に替えがたい、めいめいの宝であり、身の宝であり、家の宝である。

 教祖のひながたというは、この誠の道をお示し下されたのである。ひながたの道というは、このお道の教理を聞き分けた者の行く道すがらであります。

 結構な御教えを伝う、教えを通じて人を救済するには、誠の心よりほかにない。誠は強きものが弱くなり、弱いものが強くなる。弱きようなれど、年限経てば動かすことできぬ。

 世の中を見るに、道のごとくたすけ合いをしているどころじゃない。倒し合い、こかし合いである。我がお道はこれと反対に、人を立て、人をたすけるの教えである。これが道の教えである。また、自分のたすかる道である。

 人をたすけてこそ、われがたすかるのである。人に安心を与えて、われが安心できるのである。人をたすけるという心あってこそ、神様より天の徳を与えていただけるのである。ゆえに、誠一つの心でさえあれば、少しも心配も案じもいらぬ。(『本部員教話抄』天理教道友社 pp.133-134)

増野道興(明治23年生まれ、鼓雪の号を持つ)

誠の心に神が映る

 一体、この世は神様のご支配の下にあるので、神様は人間に決して嘘は仰せられんが、人間の心に真実がないから、神様のお言葉が嘘に見えたり、神様のお働きが見分けられぬのである。心に真実が宿っていたならば、神の働きも、神の真実も見えてくるので、お言葉にも、「ないと言えばない。あると言えばある。願う誠の心より、見える利益が神の姿や」と仰せになっている。

 誠は天の理であるから、人の心が誠になったら、天の理が自然に見えてくるのは当然のことであって、神様があるとかないとか議論しているのは、要するに心に誠がないからである。心に誠のない人は、神様のお慈悲を感ずることができないから、その心の目が閉ざされているだけ、神様の姿が映らないのである。

 世のことわざにも、正直の頭に神宿るというが、これは経験から真理であって、心が澄んで清くなったなら、神様を認めることができるのである。

 このお屋敷を教祖は、八方の神が治まる所と仰せになっている。けれども、参拝する人の心が澄んだ誠でなかったならば、神様の結構な理も見せていただけない。ただ、表面に現れた建物や人を見るだけのものである。

 これ、日々使う心づかいが、うわべの錦にのみ注いだ証拠であって、心の誠を心の錦として通っていたら、お屋敷へ来て神様の姿を認められるのである。

 それゆえ、この道は心づかいを何よりも大切にするのであって、かしもの・かりものの理、八つのほこりの理を、神様がお説き下されたのは、要は人々の心を誠にするためである。すなわち、ほこりを払うて正味の心になるので、この正味の心は人間にただ一つしかないので、これかあれかと、比べるものはないのである。(『本部員教話抄』天理教道友社 pp.213-214)

松村吉太郎(慶応3年生まれ、両親が明治4年に入信。吉太郎は明治19年に信仰を始める)

誠一条こそ天理

 (前略)教祖のご艱難、ご苦労は何のためかと申しますと、ただただ天啓の教えを世に広めたいとの思召のほか、何もありません。しからば、この天啓の教えは、根本はどこにあるかと申しますと、すなわち天理王命でござります。

 そもそも天理王命と申すは、神様自ら示したもうた御名でありまして、天理とは、すなわち神様本来自身全体なる誠一条という意味であります。なぜならば、世界森羅万象一切はみな、天理の働きにより生じ、また、育つものにして、天理の働きがなければ生ずるものでなく、育つものでないゆえに、一切の物は天理によって生育するのであります。(中略)その天理は、神様ご自性の絶対の誠の現れであります。ゆえに教祖は、誠は天の理とも仰せられ、また、理は神とも神は理とも仰せられました。その、理というものは何でござりましょう。神様ご自性の本来絶対の誠一条であります。

 さらに一歩を進めて申しますと、誠はすなわち生命とも申されます。なぜかと申しますと、世界の万物はみな、神様のお創り下されたものでありまして、その中には人間のごとき、動物のごとき、植物のごとき生命を持ちているものも、また、私どもには生命を持ちていないように見える鉱物でも土壌、水、火でも、その実表の形が異なりているだけであります。その生命は、神のご守護にて、神本来の絶対の誠の現れであり、誠の現れがまた天理でありまして、すなわち天理のお働きが生命であります。

絶対の誠

 神様の絶対の誠は、世界万物創造摂理の根本でありますので、私ども人間の誠はこれに包括されつつ、両者は常に一体でなければなりません。これを神様から見れば、人間に対し、ご霊救のご恩寵となり、私ども人間のほうからお願いし、神様一条にもたれていくのを、信心信仰と申します。(中略)教祖天啓の教えは、天理王命ご霊救のご恩寵から出たものでありまして、ご霊救のご恩寵はそのご自性たる絶対の誠から現れたものであります。されば、神様の絶対の誠ということを、私どもが真心によった感銘しないうちは、到底天啓の教えは会得されぬのであります。(『本部員教話抄』天理教道友社 pp.115-120)

 

 整理してまとめると、天理の働きが誠(生命)であり、人間の心づかいの誠と両者は常に一体でなければならないので、「たんのう」「互い立て合いたすけ合い」の心が行動と伴うことが誠として求められると述べられています。

 さらに、独立10周年記念祭(大正6年)の扇に初代真柱筆で「『誠』/ものにあたり/ことにふれても/うごかぬは/神のさだめしまことなりけり/眞之亮」と記されています。

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