親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥として旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。 (天理教教典 第三章 元の理)

 九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。 (天理教教典 第三章 元の理) 

 

 元一日にゆかりの十月二十六日、朝から教祖の御機嫌も麗わしく、参詣人も多く集まって、棟上げも夕方までには滞りなく済み、干物のかます一尾宛に御神酒一、二升という、簡素ではあるが、心から陽気なお祝いも終った。山中忠七が、棟上げのお祝いに、明日は皆さんを自宅へ招待さして頂きたい。と、教祖に申上げると、教祖は快く許された。

 翌二十七日朝、一同が、これから大豆越村へやらせて頂きます。と、申上げた処、教祖は「行ってもよろし。行く道すがら神前を通る時には、拝をするように。」と、仰せられた。(天理教教祖伝)

※大和神社事件といわれている、大和神社での信者の3日間の留置は、守屋筑前守が、京都から戻って一週間の祈祷をして居る最中の時期が悪いときです。仮に、吉田神道の関係者の会合があって、参拝できなかった守屋筑前の甥の大和神社の氏子総代の山澤良治郎(最初は良助)が一行に参加していたならばこの件はなかったといわれています。「まだ日の浅い信者の中には、このふしから、不安を感じて落伍する者も出て、そのため、折角出来かゝって居た講社も、一時はぱったりと止まった」ところをみると、親神が信者の心を試すために意図したと思われます。つまり、山中邸に向かう一行への教祖の言動は、事件後に「後々の話の台である程に」(教祖伝)と仰せられた「大豆越忠七、大工に道で言い付けて、人数神殿の前を通れば、拝して通れ。これで結構や。なむ天理王命/\唱え、太鼓叩いてつとめをし、他に居て一人の家守に事が成らず、門を閉めて了い、何構わん。皆入れ/\。三日留め置かれ、万々所の役人に掛け合うて知らし、どうなっと詫して、それより道の順序、廃って了うた。その暮になって往なずと、存命の者尋ねば分かる」(M31.8.26)の飯降伊蔵がただ一人残ったこととと「何も無い処よりそれ/\だん/\道を付けて来た。道を付けて来たは神の利やくとも言う。神の働きとも言う」(M26.2.6)の言葉から大和神社事件がおこらなければならなかったと考えられます。ゆえに単純に神社の前を通る時は拝をして通れと仰せになっているとは思われないのです。

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