いままでの、ながいねんげんのうちに、ちゑもしこみ、もんじもしこみ、また、そのうへに、をしへといふものも、神がいりこんでしこみ、いくへのみちもみなをしへきたから、そこで、ものゝよしあしは、たいてい、わからぬものはないであろう。なれど、くぶくりんまで、をしへてきたけれどもいま、いちりんの、ところがわからぬ。是をこのたび、をしへるといふ。

 それ、かりものゝりといふ。そこで、なによのことも、みなたつてゐるけれども、たつた一つ、心でおもふやろ、ならんといふ。これが、ふそくやろ。これが不足なかつたなら、それで十分。この十分の道を、それ、どうしたら、とほれるやら。それ、かりものといふりを、きゝわけさへすれば、よし、あし、わかつてゐるから、わるい處へふみかぶらず、神さまのごおんをしりて、にち/\とほるから、そこで、まこと、一つのりになつてくる。

 まことはてんのり、てんの理なれば、神さまがうけとつてくださつて、じいう、じざいの、はたらきをくださる。おもふやうな、しゆごうをくださる。これで、十分といふであろう。(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社 p.238)

 

 いしや、くすり、をがみ、きたうも、えき、はんだんも、皆、これまで人間しうりのために、神がをしえておいたといふ。なれども、これは一時の理で、神のをしえておかれた守護で、そのば/\は、たすかりたであろう。なれど、心をなほすことできないゆゑ、また、あとへもどるか、そのまゝなほつても、またいつか理があらはれて、身上にせまる。たとへていうはうなら、めしのうへのはいを、おふのもおなじこと。いろじはのくけれども、おはねば、またよつてくる。そこで、このめしをば、ほかへやつてしまふたならば、それ、おはずとも、はいはこんやうなもの。このたびは、神がおもてへあらはれて、なにかいさいを、といてきかすといふ。それ、きかしていたゞいた、はなしの理によつて、心を、いままでと、きりかへて、いまゝでの心は、はいがつくめしのやうなもの、これをほかへやつてしまふて、きりかへたよき心を、また、もとの心とかへんやうにすれば、それ、いしや、くすり、をがみ、きたう、えき、はんだん、みな是れはいらん。(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社 pp.232-233)

 

 いまゝでに、をしへきたるしうり、こえのみちといふは、ちやうど、たんぼにある道のやうなものや。道とおもふて、つたふてゐても、道はくぎれてある。また、そのあひだには、みぞもあれば、ほりもある。あぶなきところもある。それで、これは一時のり。ときどきの理。この度、神のさとする道は、いちじの道や、ときどきかはる道ではない。まつだい、たえず、まつだいかはらず、どこにあぶなきも、あんじもない。この道は、むかしからもかはらねば、これからさきもかはらぬ道、かはらぬのを、てんりといふ。

 なれど、いまゝで、しらず/\ほそみちにまよふて、なんぎ、ぶじいうをしてゐたのを、このたび、きかしてくださる。はなしのりによつて、この大道へでたならば、まこと、あんしん、にち/\とほるといふ。(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社 p.237)

 

 火は火や、水は水や、何でもないと、おもふてゐてはちがふ。火と水とは一の神。なくてはならんものゝ一つ。まちがふたら、どうにも、かうにも人間の力でふせげん。こゝをようしやんせよ。さあ、さうなつてきたら、いかながうよくでも、悪気ものでも、そんな事どころではない。なにもかもわすれて、まづ第一に手を合はすやろ。さあ、手を合したら、なんと云ふ。ナムといふ言葉がさきへでるやろがな、ナムは親々やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆是れ親のいけんやから。知らず/\、親を呼び出して頼むといふは、佛法と云ふものを、人間の心やはらげる爲に、をしえておいたのやでと仰有いました。

 教祖様が、かうやつて御きかせ下されたことがある。『五本の指の双方とも、親指をおまはし遊ばされ、今までは、この通り、おやがはたらいてゐた。そこで、何のしんじんでも、りやくがあつたやろ。これからは、(親指を手にひらへつけて)こんなものや。しんじつのをやはこの屋しきへとゞまつてゐる』と。(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社 pp.248-249)

 

六千年ちゑのしこみのあひだには、国さづちの命に、人間の生体うけさして、ふぢや、かつらの、やうなものさいて、きものをおらする事をはじめ、大斗のべの命に、人間生体うけさし、いりこんで、りふけたべものを、つくる事ををしへ、くもよみの命に、人間の生をうけさし、入りこんで、たべる道ををしへ、月よみの命に、人間の生をうけさし、入りこんで、木竹を以てすみかを造る道ををしへた。聖徳太子も此の神様のたましひと聞かせらる。(諸井政一『正文遺韻抄』天理教道友社 pp.260-261)

 

 ※以下の部分は正文遺韻抄では省かれていた。

 うらのみちにつきてのおはなし

 なむあみだぶつといふは、くにとこたちのみことさまより、たいしょくてんのみことさまにいたるまで、なゝはしらのかみさまといふ事にて、すなはち、なは、くにとこたちのみこと、むは、おもたるのみこと、あは、くにさつちのみこと、みは、つきよみのみこと、だは、くもよみのみこと、ぶは、かしこねのみこと、つは、たいしょくてんのみことさまなり。

 はふしがひがんに、なぬかのげうをするは、いちにちいちやを、しちじんへのつとめとして、なむあみだぶつのしちじんの、みやうごを、いのることゆゑ、しちじんへの、つとめをせんならんから、なぬかのげうをさしてゐるといふ。これを、にがつと、はちがつとにさすといふは、にがつは、つきひさまおそろひとたてるなり、はちがつは、はつぽうのかみ/\、おそろひとたてるなり。

 うづきやうかに、たてばなをするは、うづきやうかは、しやかによらいのうまれびである。しやかによらいは、つきさまのこゝろ。そこでこのひに、つきさまへのおれいに、はなをたてるといふ。はなはをんなといふやうなもの。それゆゑに、ひさまのみッつのけんのりをかたどって、うへ、みぎ、ひだりと、さんぽうへわけて、はなをたてるなり。

 西は、さいはうごくらく、じやうどといふは、にんしんはつまのかた。にんしんちゆうが、これ、しんのごくらくじやうどで、あらうとなり。

あみだによらいといふことは、あみとはてんのこと。だとはちのこと。によらいとは、にらみやひといふこと。それであるから、これは、てんちだきあはせの、せかいであるといふことを、あみだによらいとゆはしてあるとなり。

 ねに、せんじゆう。うしとらにては、こくうざうや。うは、もんじゆ。たつみ、ふげん。うま、せいし。

ひつしさるは、だいにちによらい。にし、ふどう。いぬゐ、はちまん。これみなかみがみさまの、ほとけとあらはれたもふところなり。

 むね三寸たすけたい。みからなさけを出すこゝろを、さんずのみだと、いはしてあるといふ。

(中略)

 此世、無い人間、無い世界を、何の形もなしに、こしらへるは、なかなか、一寸のことではないぞや。此度の助け教へるも、今までに教へてないことゆゑ、これまたむつかしきことである。

 此世は月日の體也。天は父、地は母、天地だき合の世界也。人間は月日のふところに住居してゐる故、人間のすること、月日知らんことは無し。人間は神の子、人間にまさる神はなし。これまでに、神や佛と拝をして居たれども、紙や、木や、金で拵へたものに、月日入りこんで教へることは出来ぬ。故、元なる地場へ、元の魂を産れ出し、一々親の理を顯して、事を教へてかゝる。

 口は月日皆かりて、心は月日皆かしてゐる。人間身のうち、神のかしもの。めどううるほひは、月神のかしもの。ぬくみは日神のかしもの。女一の道具に、かはつなぎは、國狭土命かしもの。男一の道具に、ほねは、月夜見の命かしもの。のみくひ出入りは、雲讀の命かしもの。いきふきわけは、惶根に命かしもの。是で五倫六體神のかしもの。此六柱の神が、身の内守護するゆゑ、ろくといふ。神の守護不足すれば、ろくでないといふ。

(中略)

 今日までに、この助け、教ができぬから、病といへば醫者、薬、をがみ、きたうや、まじなひ、えき、はんだん(易判断)人間のしゆうり、こえにをしへ来たるで。

 しゆうり、こえといふは、作物にたとへて話する。稲でも始めて種を苗代へおろし、成長して田地へ植付け、だん/\成長に應じ、こえも世話も、する間はきくけれども、十分にみのりたら、こやしもきくまい。それより刈取り、うすずりして、とふみにかければ、ほこりと、正實とを吹分けるであらう。

 人間も同じことで、是までに、かみが入りこんで、どのやうなことも教へんといふことはない。この度の助け教へといふは、これもない事教へ、ほんしんぢつををしへて、一れつのむねの掃除にかゝるから、うそとおもへば、うそとなる。誠とおもへばまことゝなる。見えぬことをばときおいて、さきで見えたら是が神やで。人間はあざないものや。先の道筋更にわからん。死行いふてゐるけれど、必ず死行ではなし。身の内、神がしりぞくなり。死行といふは、ふるぎをぬぎすつるも同じこと也。(諸井政一『正文遺韻』天理教山名大教会 pp.218-222)

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