中西牛郎『神の実現としての天理教』

 教祖が天照大御神を伊邪那美命なりしと信じ、自己を伊邪那美命の御使なりと信じたる處に、此の出現の意義が示されてある。(p.53)

 教祖の御晩年に、或る人がキリスト教の十字架を持ち来って、これは何でありますかと御尋ねしたら、教祖答えて、それは完成の意義であると答え給うたといふことである。完成の意義とは何ぞや。蓋し十字架も亦十柱の神の象徴にして、イエスの教へた所は即ち天啓の教の予言であるといふことであろうと思はれる。然らば天理教は、キリスト教に千九百年も後れて出現したが、天啓の教えからいふときは、キリスト教こそ天理教に属するものであって、天理教はキリスト教に属するものでない。教祖が十字架を以て完成の意義と言ひ給ひたるの意義は、ここにあるのである。(pp.79-80)

 教祖以前の宗教にも永遠の眞理なきにしもあらざるも、純天啓教はただ神の実現たる教祖の教のみにして、教祖は此の純天啓教によって、世界一切の宗教を統一せんと思ひ立ち給うた。而して其の統一といふことは、總合の意義でなくして完成の意義である。何となれば總合といへば、佛教からも一分の眞理を取り入れ、キリスト教からも一分の眞理を取り入れ、他の種々の宗教からも亦一分の眞理を取り入れて、新宗教を成立せしむるといふことであるが、是れでは人間の建立する宗教であって、天啓の教ではない。天啓の教は、世界一切の宗教には真実と謬妄とが雑りゐるから、其の眞理は是を存し、其の謬妄はこれを捨てゝ純天啓教に歸入(帰入)せしむることである。されば其の捨つべき謬妄は、天啓の教に無き所にして、其の存ずべき眞理は、天啓の教に有る所なれば、詮ずる所、世界一切の宗教は天理教に歸入(帰入)して、其の不完全なる眞理が完全なる眞理となる。これを統一といふのである。(pp.91-92)

中西牛郎(1859~1930)・・・明治~昭和時代前期の宗教思想家であり、明治21年西本願寺の後援によりアメリカに留学し、帰国後本願寺文学寮の教頭となる。一派独立の出願で明治33年に教義の整備で、松村吉太郎指導のもと「みかぐら歌釈義」をまとめた方です。

 

 昭和24年に芹沢光治良が教祖伝を書くための資料収集のために二代真柱と出会った時に、

芹沢光治良『死の扉の前で』新潮社 p.28

 この度は天理教教祖伝を書くことになりましたので、ご挨拶に上りましたと、話しかけた途端、

親様の御伝は、父の初代真柱の書かれた完璧なものがあるから、新しい教祖伝はいりませんと、甲高い声がしたが、僕はわが耳を疑いました。しかし、慌ててすぐ申しました。

天理教団にとっては、仰せの御伝があれば十分かも知れませんが、教団とちがった立場にたって、社会に向い、世界に向って、書かれる教祖伝は存在の理由がありませんか。イエス・キリスト伝は世界各国の作家が書いていますし、私もそのうち有名なものは殆ど読んでいますが、どれも違った感銘を受けました。同じように、偉大な教祖の伝記は、いくらも書かれていいと思いますが・・・と、必死に話すと、黙って反対もしないので、

それについて、史料に関するご協力を願いますと、加えました。(昭和53年執筆)

芹沢光治良『神の微笑』新潮社 p.152  

 「君は教祖伝を書くそうだが、僕の父が立派な伝記を残してあるから、もう教祖伝はいらんよ」

僕は天理教の時報社に公式に頼まれていると、話そうとして、ためらいながら答えた。

「ご存知のように、キリスト伝は、時代や信仰の相違でいろんな人が書いていますね。教祖伝も、同じだと考えませんか」

「君はイエス伝を書くような意気込みで、教祖伝を書くのか」

「そうでなかったら、教祖伝なんか、興味はありませんよ」

「それで、僕に、どんな用があるの」(昭和61年執筆)

※芹沢光治良(1896~1993)・・・小説家であり、弟に天理大学名誉教授の芹澤茂がいます。『教祖様』昭和53年執筆。中山みきは人間心があり神の仰せに近づこうと努力した人間という解釈です。

執筆年の違いで多少の違いが生じていますので、参考まで。

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