だめ(駄目)は、①囲碁で、双方の境にあって、どちらの地にもならない所。②しても効のないこと。むだ。無益。③してはいけないこと。不可。(広辞苑)とあります。

 「何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け」(M21.1.8)

 「これが話のだめの話。今後どうしてくれ、こうしてくれ、これよりありゃせん」(M40.4.7)

 と囲碁用語のどちらの地にもならない所として一番最後に打つことから、だめの教えは最後の教えという意味です。

 「親神直直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである」(天理教教典)

 「このたびは、こゝの一ツををしへる道であるで。十のかずなら、一ばんしまひの十目のをしへ。すなはち、とめのをしへや。だめのをしへやで」(正文遺韻抄)

 天理教は最後の教えと教えています。

 

 仏教では、『涅槃経』は、釈迦が、クシナーラーで入滅される最後の経典です。阿含経典と大乗経典の『大般涅槃経』です。

 その大乗経典の『大般涅槃経』の中に世尊は依るべきもの四つ(四依)を先に説いています。「法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ。智に依って識に依らざれ、了義経に依って未了義経に依らざれ」(大般涅槃経 第六)があります。

 その四つは、「人によらず法によれ」「お経の言葉によらず教えの意味によれ」「常識的な理解によらず仏の智慧によれ」「不完全な教えによらず完全な教えによれ」です。大乗経典が了義経であり、涅槃経が了義経中の了義経、完全な教えとなるのです。

 さらに、降魔成道の話等、お経には四種類の悪魔が説かれ、死をもたらす死魔、天の神の姿をした天魔、心の中にすむ貪瞋痴の煩悩魔、五蘊の蘊魔です。つまり、仏説以外は魔の説だと述べています。 

 釈迦が入滅後、仏弟子たちの結集によって「法と律」がまとめられ、各地に展開していく過程で五つの部派(上座部大寺派、説一切有部、化地部、法蔵部、大衆部)ができます。その中で少なくとも上座部大寺派、説一切有部、法蔵部は、「法と律」を承けて三蔵(律蔵、経蔵、諭蔵)を作り出しました。上座部大寺派に伝承されるのがスリランカ・東南アジアに伝えられたパーリ語経典三蔵で、説一切有部に伝承されるのがチベット・中央アジア・東アジアに伝えられたサンスクリット語経典三蔵です。その三蔵の中の経蔵の仏教経典集のアーガマ(阿含経)のテクストとして、パーリ語経典のパーリ五部【ディーガ・ニカーヤ(長部)、マッジマ・ニカーヤ(中部)、サムユッタ・ニカーヤ(相応部)、アングッタラ・ニカーヤ(増支部)、クッダカ・ニカーヤ(小部)】とサンスクリット語経典の漢訳四阿含【長阿含経、中阿含経、雑阿含経、増一阿含経】ですが、後の大乗経典の登場で多くが出そろった南北朝時代に中国では教判がはじまり「五時説」が生まれます。隋代に天台知者大師智顗によって採用され五時の内容が変わり、華厳時(華厳経)、鹿苑時(阿含経)、方等時(維摩経・思益経・金光明経・勝鬘経などの大乗諸経典)、般若時(諸般若経)、法華・涅槃時(法華経・涅槃経)となりました。日本では、最澄が全ての人には仏性が備わっているので悟りが開ける一乗思想(法華経)を主張しながら、四宗融合(円教〈中国の天台宗〉、密教、禅、戒律)して独自の天台宗を完成させます。さらに、日蓮が「五綱の教判」によって、唯一無上として法華経を一乗真実としました。それは後にも先にも真実は一つを表しているのです。※初期仏教の法は阿含経からしかたどることができません。

 さらに、釈迦は伝説では生まれたときになりますが、実際にはブッダとなってから「天上天下唯我独尊(神々もふくめ、世界中で一番偉いのは私だ)」と宣言しています。

 仏教は単独で完結しています。

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