政治とは、まつりごと、国を治めること、権力の行使、権力の獲得・維持にかかわる現象であり、主権者が領土・人民を統治することです。したがって、人民を統治する手段として宗教が利用されて、主権者に都合の良いように教義が変容する場合がありますが、宗教が政治に関わることで間接的に影響を与えたり、布教においては恩恵を受ける側面があります。また、日本の戦前では国家神道の制度から官憲の弾圧を防ぐために止むを得ず各宗教も国家に従順しなければならない環境だったので、天理教も例外ではありませんでした。海外の宗教も政治と関わってきた歴史があり、アメリカは合衆国憲法で政教の分離を規定していますが、大統領就任式で右手を掲げつつ左手を聖書に置き宣誓したり、通貨にも「IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)」と印字されているほどキリスト教国家であるアメリカは政教分離ができてないように思われます。ヨーロッパの国々の多くも宗教に影響を受け、イギリス・スイス等の国旗に十字架の入っている国やフランスの国旗は色彩の配列で聖書の内容をあらわしています(フランスは1905年の政教分離法によって政教分離が厳格です)。イギリス国教会はイギリス国王を首長としています。東方正教会を国教としている国は、ギリシャ、フィンランド、キプロスです。人口のほとんどが仏教徒のタイは法律で仏教を支援をしています。イスラム教を国教としている国は、23カ国もあります。では、各宗教が政治とどのように関係していたのかの歴史を概観します。

 

 天理教では、政治に対しては「政治と天理教について」で原典の解釈で述べましたが、明治時代に公の布教をするために国家権力の公認の教会を設立しなければならなかった背景を無視することはできません。故に当時として数百万の信者がいる天理教は、明治27年の日清戦争では、明治政府から要望があり人夫を出そうとしたが不採用となり、代わりに軍資金として1万円献納しています。明治37年の日露戦争では、戦死者の子弟の学資を補助しています。さらに神名の変更、おつとめの内容の変更、教義の変更、その後の革新の時代の新体制は迫害を防ぐための窮余の策の応法として対応しています。しかし、信仰者の本心の変更がなかったからこそ不思議な救けがあがり教勢が拡大していったと考えられます。

「応法というは心にある」(M36.3.21)

 体制に応法があるかどうかでなく、各自の心に応法があるかどうかです。

 当時としては、大日本帝国憲法第28条で信教の自由がありましたが、実際には国体にそぐわない宗教は弾圧や差別がありました。1939年に宗教団体法が制定され神社以外の宗教団体が法人となりましたが、1945年の敗戦を契機に12月28日に旧法は廃止し、新たに宗教法人令が公布・施行されます。1948年に日本国憲法が施行され第20条、第89条で信教の自由の保障,政教の分離が明確にされました。

 

 天理教の用語のなかに真柱、荒木棟梁、用木といった普請に関係する言葉がみられますが、上から普請を完成していくのではなく、それぞれの役目を通して、陽気ぐらしの世界の普請に皆が関与していきます。天理教の理想とする世界は国家による上意下達ではなく、教えを差し金として各自の心のふしんが、世の中のふしんへと繋がっていくことだと思われます。それは、心が物質の存在の根源である唯心論であるので、例えば、核兵器廃絶運動の核兵器の保有を禁止も核兵器を使おうとする人達の心の問題や、軍備拡張競争と結びつける軍備増強も拳銃一丁でも殺人をおこす人の心の問題を問題視しているのです。教祖は禁止事項を設けて解決を図るよりか、根本の解決として人間は皆兄弟であり、助け合いなさいと教えているのです。

 国家権力の強制でない自己改革が自然と社会改革へと波及していくことが、真の平和、陽気ぐらしの世界が建設されるのでしょう。「上ゑとふりた事ならば」で「上がききわけた事ならば」ではありません。ここに政治家に平等に教えを説いても政治に対しての要望がないことが明白です。

 政治思想に置き換えれば、天理教の用語「ろくじ」がマルクス主義の用語「無階級社会」と混同されやすいですが、各自に分相応に神から与えがある状態なので、財産の私有を否定して共有として分配する共産主義と違います。また、計画経済は市場経済に対して神が人間に与えた個人の自由がないからです。実際にマルクスの共産主義に基づいたソ連をはじめ多くの共産主義(社会主義)国家は、国民が貧困化したり、言論の弾圧により多くの国民が殺されたりしています。

 「ろくじ」が説かれていた当時としては、明治の国家統合の祭祀として皇国史観に基づく天皇現人神の教説による国民教化にはじまり、早々に神道国教化政策は失敗しましたが、国家が神々を管理することが可能となりました。そのことによって国家神道が国民の精神を支配していましたので、「ろくじ(平ら)」として大社・高山取り払うという手段で平等にしようとします。太平洋戦争の敗戦後は国家神道の解体で日本人すべての魂が平等と認知されます。それによって明治時代から太平洋戦争の敗戦までの権威主義は終焉を迎えています。しかし、日本本土に対する米軍の無差別爆撃や原爆投下で、本土に残されていた女性・子供・老人の多くが犠牲に天理教の信者も亡くなったことから、アメリカは神の使いではないですが、日本が負けなければ体制が変わらなかったのも事実です。

 神が待ち望む世界への途中経過として、正しい金儲けが善や資本の蓄積が目標の資本主義の時代があり、その後は、教祖の口伝に「まことを以て売り買いをする、真実の時代が来るのやで」とありますが、どういった時代なのか正確には分かりませんが、誠は人をたすける心であるので、相互扶助があり資本・共産主義にとらわれない社会ではないでしょうか。

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