聖地とは、神聖な土地、神・仏・聖人などに関係ある土地ですが、全ての宗教には聖地や重要な場所があります。

 

 天理教の聖地は、人間創造の際に、最初に宿し込まれた地点の「ぢば」ですが、ぢばは、親神が鎮まるよろづたすけの源泉で、天理教の信仰の対象であり中心です。

 その「ぢば」は、明治八年のぢば定めによって明らかにされました。

 教祖は、前日に、「明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように。」と、仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。

 教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた処、皆、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止った。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなった。こうして、明治八年六月二十九日、陰暦の五月二十六日に、かんろだいのぢばが、初めて明らかに示された。時刻は昼頃であった。(天理教教祖伝)

 しかし、八島教学によると屋敷内の建物の配置とおつとめを考えて、教祖が適当に決められたと述べて、天理教教祖伝の作為の一例として本稿を否定しています。また、昔から「ぢば」という一点が決まっていたのなら、ぢば定めという言葉は生まれなかったとも述べています。定めが同じ意味の心定めは、親神の思いを理解して応えようとする決意が揺らがないことであり、そこには以前から変わらない親神の思いがあります。同じように以前から変わらない「ぢば」という一点があり、ぢば定めは、その一点が揺らがないようにすることです。

 天理教教祖伝は、初代真柱が書いた「教祖様御伝」が底本となり、ぢば定めについては、第十六回教義講習会で二代真柱が「このぢば定めにつきまして、ここに一通りの誰それが歩いた、誰それが歩いたというようなことがあるのでありますが、従来の教祖についてのいろいろな教組伝によったならば、全然ふれておらないという教組伝もございます」と話されている様にいろいろな説がある中で、史実の裏付けが取れない事により、辻忠作の手記から台になっている説話だと述べられています。

 辻忠作の手記は、

「・・・廿年前、明治八年、教祖様、こかん様、弐人、御指図にて、かんろふだいの場所御ためしになりました。そこをあるいて、向へも横へも一足もゆけぬ所へしるしをつけ、他のもの知らずにみな、信心のもの目をくゝりてあるき、中田、松尾と市枝与助、辻ます(忠作の妻)、子をおふてあるけば、みなおなじ所で立どまりました。それかんろふだいの場所となりました」(『続ひとことはなし その二』)

「廿四年前(明治八年)教祖様、小寒様、二人お指図にて甘露台の場所おためしになりました。そこを歩いて向へも横へも一歩も行けぬ所へしるしを付け、他の者ならずに皆信心のもの目を括りて歩き、中田、松尾、市枝与助、辻ます(忠作妻)子を負ふて歩けば皆同じ所で立ち止まりました。それは甘露台の場所となりました」(『辻忠作手記』、『復元』第三十七号)

 おふでさきにも、

 このさきハあゝちこゝちにみにさハり 月日ていりをするとをもゑよ(八 81)

 きたるならわがみさハりとひきやハせ をなじ事ならはやくそふぢふ(八 82)

 そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろふだいを(八 83)

 心のほこりをはらい、屋敷内の掃除をしたら、歩いて足が止まったところにかんろだいを建設せよと仰せになっています。

 そのかんろだいが据えられたのは「ぢば」です。

 このもとハいさなきいゝといざなみの みのうちよりのほんまんなかや(十七 6)

 そのとこでせかいぢううのにんけんわ みなそのぢばではじめかけたで(十七 7)

 そのぢばハせかい一れつとこまても これハにほんのこきよなるぞや(十七 8)

 にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑてをくぞや(十七 9)

 ここに、ぢば・かんろだいを芯にした「つとめ」と「さづけ」が整えられていきます。

 聖地は一カ所です。

次頁

inserted by FC2 system