天理教における女性観

 現場サイドで教えてもらう夫婦での男女間は、「女は台」こうき話で「大蛇(台じゃ)」で女性の役割が土台となり、家庭の良し悪しは、女性の責任が大きいと説く所があったり、「雄松雌松の隔てなし」、逸話篇「月のものはな、花やで」と女性に対する悪い風習を改めて女性の解放を行っていますので、性にとらわれない男女の垣根を取る男の役割を女がしたり、女の役割を男がしたりと現在のジェンダーフリーの時代に合ってる男女間の区別がないと考える方もいます。

 天理教は「雄松雌松の隔てなし」によって神から見た男女平等を説き、「地と天を象って夫婦を拵え」逸話篇「女房の口一つ」「一に愛想」「男の子は、父親付きで」等と十全の守護や元の理で男性・女性の原理があるので性役割を説いていると言うのが現状です。しかし、それは近代家族においての夫婦間で一般に「男は仕事、女は家庭」「男は外、女は内」という固定された性別役割分業や社会的性別ではなく、男女間の優劣をつけるわけではない男女間の違いであり、逸話篇「言葉一つ」「女房の口一つ」は、夫婦のある姿を説いています。

 「雄松雌松の隔てなし」は、

 おふでさきで

この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく (七 21)

ようぼくとなる者には男女による区別はないと

 おさしづで

明治三十一年十月二十六日

「この道の始めた教祖一代の処は女、後席は男。男女の隔て有るか無いか」

 さらに教会本部における婦人会創設の発端となった明治三十一年三月二十五日のおさしづに続いて翌二十六日の以後の筋道心得事情申し立て願の中で「男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。……これから話、男女の隔て無い。よう始めた道聞き分け。この道始めたは男か女か。これから悟ればどんな事も分かる」当時の背景としては、内務省訓令によって警察による厳しい取り締まり、前橋事件や安堵(水屋敷)事件でバラバラになっている人々の心を神一条に徹する一つとして婦人会の設立と言う神意があり、それと屋敷内にいる婦人は互いに教理を話し合う事は稀なのと、どうしても炊事・掃除に埋もれてしまいます。これらの事によって、女性を表に出そうとしました。つまり神から見れば人を引き出す事について男女の差別はないと仰せになったのです。

 

 当時としては、事実に於いては甚だしい女性軽視が行なわれ、女性重視の天理教としては、先ず女の大厄と言われていた出産の加護を与え、安産と母体の健全とを得させることから始められた。そして、在来の宗教で生理的現象により女性は穢れているている原因となった月のものに関して、教祖は月のものは実を稔らすための花と仰り、女性は穢れてないと明示され、女性は男性に比して低い立場にあるものでなく男女の上下の区別はない。むしろ「婦人は道の台」と言われているように、一家の信仰の土台たるべき大切な立場を占める。女性は、子供を宿し産む育てる尊い役割があり、男性は種、女性は苗代として教示されているように、女性は、男性の積極的なものに対して受容的なものである。また男性は潤い、女性は温みの心が根本的な性情としてあり、男性はつっぱりとし支え、女性は心を繋ぎ、しっかり踏ん張る働きがあらなければならない。(中山正善『陽気ぐらし』天理教道友社 参照)

 教祖は「男は水のような心、女は火のような心」とおっしゃった。(『教祖より聞きし話』高井猶吉)

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