祭儀は神仏、祖霊に奉仕して慰め、鎮魂したり感謝、祈願したりするための儀式です。

 天理教における祭儀の中心は「つとめ」です。

 つとめは、ぢばにおいて「かんろだい」を囲んで行われるつとめと朝夕のつとめがあります。

 おふでさきに用いられている「つとめ」は、かんろだいに於いて勤められる祭事「かぐらづとめ」をさします。

 いつもかぐらやてをどりや すゑではめづらしたすけする(六下り目 五ツ)

 りうけいがいさみでるよとをもうなら かぐらつとめやてをとりをせよ(一 14)

 かぐらづとめと12下りの手踊りとなり、この二つは切り離せないが、夫々の理には多少軽重があります。

 教祖5年祭の時のおさしづ(M24.2.20)で、かぐらづとめをかんろだいの場所で行わずに教祖の御霊の前でお勤をすることに対して「さあ/\学び/\」とお許しになりましたが、こかん二十年御霊祭の場合のおさしづ(M27.9.25)はかぐらづとめはお許しにならずに、12下りの手踊りだけをお許しになりました。それは、かぐらづとめは”ぢば”限りでかぐらづとめの理がいかに重いかということと教祖と道具衆との違いを示す証左です。

 このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを(二 9)

 そのつとめは、よろづたすけのために教えくだされ、人間の身上・事情や農作物の豊作、社会の平和に至る一切の守護を見せてやろうと仰せになっています。

 親神が急き込んだつとめは、

 かぐらづとめ・・・使用する道具。

 よふきづとめ・・・つとめる人の心持ち。

 たすけつとめ・・・つとめの目的。

 かんろだいのつとめ・・・つとめの場所。

 みな同じつとめの事です。

 かぐらづとめは、ぢばでかんろだいを囲んで、10人のつとめ人衆がかぐら面をつけて、みかぐらうたの第1節を21遍、第2節を1遍、第3節を7遍ずつ3回都合21遍をつとめます。てをどりは、男3人・女3人の6人が神床に向かって一列に立って「よろづよ八首~12下り目」をつとめます。

 朝夕のつとめは、5人がかぐら面をつけずに、神床に向かって一列に座って鳴物などの道具を用いながら、みかぐらうたの第1節を21遍、第2節を1遍、第3節を3遍ずつ3回都合9遍をつとめます。

 かぐらづとめは、人間から親神に対する祈念で、朝夕のつとめは、親神の日々の守護に対して感謝の意味が大きいです(朝は一日の祈念、夕は一日の感謝)。

 

 つとめの歴史

 慶応二年 「あしきはらひ」

 慶応三年 正月~八月 1下り目から12下り目を教えられる。

 ※初めて教えてもらった人は、歌は辻忠作・村田幸右衛門・前川喜三郎、手振りは仲田儀三郎・辻・前川・北田嘉一郎・善助

 明治三年 「ちょとはなし」「よろづよ八首」

 明治六年 飯降伊蔵に命じてかんろだいの模型を作成。

 ※直径約一尺二寸、厚み約三寸の段が上下にあり、その間は直径約三寸の棒があり、その総高さは約六尺。

 このひがらいつの事やとをもている 五月五日にたしかでゝくる (四 3)

 明治七年六月十八日(陰暦五月五日) かぐら面を前川家に迎えにいき、これを着用しておつとめされた。

 そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろふだいを (八 83)

 明治八年六月二十九日(陰暦五月二十六日) ぢば定め。

 ぢば定め直後 「いちれつすますかんろだい」 十一通りの特別願いのおつとめ。

 こかん身上のお願づとめに当り、初めてかんろだいの模型が元のぢばに据えられた(9月27日こかん出直し)。

 一寸したるつとめなるとハをもうなよ 三十六人にんがほしいで (十 26)

 そのうちになりものいれて十九人 かぐらづとめの人ぢうほしいで (十 27)

 だん/\と人ぢうそろふたそのゆへで しんぢつをみてやくわりをする (十 38)

 やくハりもどふゆう事であるならば かぐら十人あといなりもの (十 39)

 ※かぐら10人、鳴物9人、てをどり36人、がくにん(或は筆取りがくにんでつとめに関係しない人)20人で計75人。

 明治十年年初より三曲の鳴物を教えられる(琴、三味線、胡弓)。

 明治十三年九月三十日(陰暦八月二十六日) 初めて三曲をも含む鳴物を揃えて、よふきづとめが行われた。

 明治十四年五月上旬 かんろだいの石出しひのきしん。

 明治十四年九月下旬 かんろだい2段までできる。石工 横田七次郎いなくなり頓挫。

 明治十四年 たまへの手よりつとめ人衆の印としての12弁の菊の紋を人々に渡される。

 にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑてをくぞや (十七 9)

 明治十五年五月十二日 かんろだい石没収。

 「あしきをはらうて」「いちれつすましてかんろだい」に変更。

 小石が積まれていた。

 明治十五年十月十二日~十月二十六日毎日づとめ。

 ※教祖、上段の間に出席。

 ※明治十六年は、明治でも類のない大干ばつであった。三島村、河内の刑部、法善寺でつとめられた。

 教祖存命中は、教祖の特許により、ぢばを離れて、病人の頭あたりでたすけづとめをつとめたり、または明治十六年の雨乞いつとめも、教祖の特許により、ぢば以外でつとめられたが明治二十年後は、特許なし。

 明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)鳴物不揃いながら、本格的につとめをされた。

 

 天理教教会本部の祭典

 元旦祭(1月1日)、春季大祭(1月26日)、教祖誕生祭(4月18日)、秋季大祭(10月26日)、月次祭(大祭月を除く毎月26日)。

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