天理教では、

 たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ (三 40)(三 135)

 このよふのぢいと天とハぢつのをや それよりでけたにんけんである (十 54)

 はたらきもとんな事やらしろまいな せかいちうハをやのからだや (十五 37)

「この世離れて了たら、どうもなろうまい」(M27.10.9)より人間が生きている世をこの世だとすることは変わりませんが、人間が死んで行くあの世の概念はありません。

 また、「此の世と言うは、夜から世照らしなさる月様が先はじめ、夜から始りた此の理を以て、此の世と言う」(16年本 桝井本)

 

 この世は神の身体で人間は神のかしものであり、一般的な神の概念のように天にいてこの世を眺めているわけではありません。すなわち、地球の歴史は神と共に歩んだのです。その地球科学の古生物学では、中生代にこの世を支配していた恐竜が2億5000年前に現れ、6600年前に絶滅するまで約2億年間、弱肉強食の時代があり、考古学では、人類の祖先が600万年前から500万年前に現れたとあります。天理教では人間の智慧の仕込みは約1万年前から、地球史46億年の中で歴史が浅いです。それ以前の八千八度の生れ更りの過程の中で、自らの生存の為に他を犠牲にする期間が長かったうえに、現在でも自然界のバランスをとるために必然的でも動物は弱肉強食です。そのうえ、虫の世界でも存在そのものが不必要な吸血性の蚊、ダニ、ノミは自らの生存の為に他の動物が嫌がる吸血する行為等をします。そして、動物は自然界より飼育環境下の方が長生きします。また、宇宙では人間は生き残れないうえに地球も人間が生活しにくい砂漠、極寒の地や危険が多い密林の地があり、自然環境は過酷です。このような事は神の身体の中での出来事です。自然災害、飢饉、戦争、犯罪、今回のコロナもあの世でなくこの世の出来事、神の身体の中での出来事です。

 人間の誕生はいくつもの奇跡が合わさった事ですが、世界創造でこの世のどろ海を澄ましていった過程があるので、神そのものが優しい部分と厳しい部分があると考えられます。神自身は人間に対して「難儀さそ困らさそという理は無い」(M21.9.25)と言う考えなのですが、前生いんねんがある故に苦しまなければならないと同時に、苦しみは楽しみの種となるため、全ての苦しみは排除しない神意です。また、誠の心のためしが苦労の中での心の動きを重視しています。その中で「いつまでしん/\゛したとても やうきづくめであるほどに」(みかぐらうた)と陽気な心を求めています。「心に掛かる事があれば、陽気とは言えん」(M21.10.12)「さんざいこゝろをさだめ」(みかぐらうた)「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」(M36.12.22)があるので、信仰生活の基準として、三才心になりなさいとあります。

 原典は数えであるので3歳は満2歳です。現実には、2歳から自我が芽生え親に対して反抗して子育てが大変になってくる時期です。それゆえ教祖の仰せになっているのは「素直になりなさい」でなく、おさしづにある「三才で物分かり掛け」(M22.6.16)、「三才の心というものは、何にも心に掛けんものや」(M22.11.7)、「生まれ児小児一つ心に成れ。生まれ児の心には何も欲しい物は無い。生まれ三才、又ちょと一つ心分かろうまい。さあ/\生まれ児は持たせば持ち、持たさにゃ持たん」(M40.1.20)と親の言葉が分かる無欲で無邪気な心になりなさいと説いています。また、陰気になる先案じも戒めていて、仕返しをしなくて、その人を思う優しい心について仰っている「神様には、あほうが望みと仰しゃるのやで。利口のものはつけん」(増井りん『誠真実の道』)の逸話があるのですが、一方で子供より大人の方が知識があるため先案じをしやすいので、あほうになれば先案じをしなくなることも考えられます。

 つまり、この世がどのような形であろうとも心一つで幸せになるという教えです。

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