天理教では、人間の身体は神からのかしもの、かりものという教えがあります。

 めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん(三 137)と「かしもの・かりもの」の教理は重要な教理です。

 人間の出産は、

 たいないゑやどしこむのも月日なり むまれだすのも月日せわどり(六 131)と神の守護によるものです。

 にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら(三 41)

 にんけんハみな/\神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか(三 126)

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。……銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。(天理教教典  第七章 かしもの・かりもの)

 

 人間を創られたのは、人間の陽気遊山を見て神が共に楽しみたいためであり、そのために各々の心が神から人間の身体を借りています。それは陽気暮らしをするために必要であるということです。さらに、かりものであるので、神の意に沿うように使わなければなりません。例えば、物を切るハサミですが、それを金づちのように使ったら壊れるだけです。天理教の教えには人間には九つの道具(目、耳、鼻、口、右手、左手、右足、左足、一の道具)があり、それを神が意図した使用目的以外で使えば壊れる事は明らかです。

 

 さらに、天理教教祖伝逸話篇「六四 やんわり伸ばしたら」に、

 「お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心にお たすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、 泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭を使っては功能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。 水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間程これを続けた。又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、 天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに 廻わらせて頂いた。こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、『熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで。』と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた」とあります。

 つまり、人間の身体の使用方法を間違えずに大切に使わしてもらうのが教えです。

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